性・暴力・可愛さ

 この記事では、ハスミの『うさぎ兄弟発情中』を読んで考えたことを述べる。

 私たちは須和野チビ猫とか、セイント・テールとか、涼宮ハルヒとか、漫画やアニメのキャラクターを見た時に可愛いと思うけど、その可愛いと思う気持ちには、必ずしもそうとは限らないけど、そのキャラクターを犯したりめちゃくちゃに傷付けたりしたいという気持ちが含まれていることがあるんじゃないだろうか?

 以前、「女体化するオタク」という記事で僕は、オタクを研究する者たちがオタクについて語り合った『網状言論F改』という本を取り上げたけど、その本に収録された「ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」という鼎談で、東浩紀は以下のように言った。

 そもそも、ここ何十年かの先進国では、セクシュアリティと暴力の問題を切り離すのがパラダイムになっていると思う。複数の主体が対等な関係で性関係を結ぶ、というのが範例になっていたと思うんですね。SMにしても、ゲイにしても、そのかぎりでセクシュアリティの多様性が認められる。しかしロリコンはそこが違う。ロリコンマンガは、ショタなどの微妙な問題を横に置けば、基本的には強い男が弱い女を犯す構図でできている。他方、いまの流れで言うと、やおいでも同じように性と暴力の密接な結び付きが問題とされているらしい。とすれば、ロリコンとやおいの共通点として、性と暴力の関係を露悪的に書くジャンルというのが挙げられるのではないか。そしてここには、性と暴力を切り離し、セクシュアリティを「主体」の「自己決定」の問題の中に回収しようとする支配的なパラダイムに対するカウンターの意味がある。いまや多少の性的倒錯にはまったくカウンターの意味がないわけだけど、ペドファイルやレイプのような「非人間的」で「暴力的」な性にはその魅力が残っている。

 つまり、東浩紀は、性と暴力と可愛いものは密接に結び付いているのに、近代社会にはそれらを切り離すべきだという価値観があり、ロリコンやBLの漫画はそれらの結び付きを強調している点で社会の規範に反していると主張した。

 凛音とハルキの動画の視聴者たちは、2人に向かって「かわいい」と言いながら、2人を性的対象と見なし、2人に暴力を振るう。例えば、7章で視聴者たちは、さんざん凛音を犯した後、凛音にウエディングドレスを着せ、「かわいい」と言っていた。つまり、『うさぎ兄弟発情中』では性と暴力と可愛いものの結び付きが書かれている。従って、『うさぎ兄弟発情中』は近代社会に対する反逆の書だと言えるだろう。

 参考文献

 東浩紀編『網状言論F改 ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』、青土社、2003年

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