意思と生殖のジレンマ
初めに
この記事では、「激情」で取り上げたツヅキ真宵の「デタッチ」という漫画をもっと詳しく分析する。
登場人物
ひーくん 父親から虐待を受けている。
トモ ひーくんの友達。
(1)自由・平等・博愛
トモは、ひーくんの口をふさぎ、ひーくんに「ひーくん…/それはもう/ナシだよ!!/切り捨ててよ」と言った。「それ」とは何かと言うと、この直前にひーくんがトモを「とうちゃん」と呼ぼうとしたことから、トモを「とうちゃん」と呼ぶことだと考えられる。それじゃあ、なぜトモは「とうちゃん」と呼ばれるのを拒否したんだろうか?
ここで、この謎を解き明かすために、人間同士の関係について考えてみよう。かつては人間の立場は生まれつき決まっており、支配者と奴隷のような関係は支配者の意思に基づいていた。一方、現代では(建前としては)人間の立場は生まれつき対等であり、雇用主と労働者のような関係は個人同士の契約に基づいている。ところが、現代にも個人の契約に基づいていない関係が存在する。それは親子である。というのも、まだ生まれていない子供は意思のもちようがないからだ。
このことから、子供を産むことは意思の尊重に反するという、驚くべき事実が明らかになる。だから、もし意思の尊重だけで倫理の体系を構築するなら、親子の関係を生み出すことを否定しなくてはならない。逆に言えば、トモが「とうちゃん」と呼ばれるのを拒否したことは、トモが強い立場にある人だけを重んじる社会を捨て、あらゆる人を重んじる社会を創りたがっていることを示しているんじゃないだろうか?
(2)射精は連想のトリガー
トモは、「とうちゃん」と呼ばれるのを拒否する3ページ前、「僕を/ひーくんの父親に/して下さい」と言っていたのに、なぜ突然考えを改めたんだろうか?
ひーくんは、「とうちゃん」と言いながら射精している。射精は、本来生殖のために存在する現象だから、必然的に生殖を思い出させるものだ。だから、トモはひーくんの射精によって、親子の関係を生み出すのが生殖であることを思い出したんじゃないだろうか? トモは、そのことがきっかけで考えを改めたと思われる。
(3)自我の誕生
トモは、当初は親子の関係を再現しようとしていたけど、ひーくんの射精をきっかけにして、個人同士の契約に基づいた新たな関係を作ることを決意した。支配者だけを重んじる社会を捨て、あらゆる人を重んじる社会を創ることによって、人は社会の歯車であることをやめ、自我をもった個人として生まれ変わるのだ。
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